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TPP反対派の知的分析 [Unit 17 農業]


中野剛志先生のよくわかるTPP解説―日本はTPPで輸出を拡大できっこない!

( 前回のつづき )

英語教育に debate というものがある。
自分の意見と反対の立場に(わざと)立って議論することで
"the art of persuasion"(説得力)を磨くトレーニングだ。

「相手の立場で議論する」という一見遠回りな作業を経て、
自分の殻に閉じこもっていては見えないことが見えてくる。
白熱した討論になりなかなかおもしろい。

しかし、英会話上級者がする discussion より難しく、
ネイティブレベルの英語力があっても苦労する。

また、自分の持論を(一時的にでも)殺してしまわなければならないため、
その人の寛容さが試される。

TPPに関してぼくはどちらかというと反対寄り。
EPA/FTAのほうが良いんじゃないかと思う。

しかし、それさえ「米国丸儲け」になったのが米韓FTAらしい。

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コメント 2

noga

英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。

現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。

真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。

現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。

日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。

西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。

英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。

考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。

物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。

究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。

国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812


by noga (2011-09-20 18:27) 

Ray

そもそも、ルーティンで整合的な日常としての現実が制度として機能していることがまず前提にあるとき、客観性・条理は現実の側に属し、個々人の体験はそれだけでは主観的・偶然的な現象にすぎない。しかし他方で、そうしたものを破壊したり、そこに侵入したりする、外部的な、偶然的で出来事的な逸脱や暴力的アクシデントによって、そうした制度(ノモス)的な現実を支える、非制度的な自然(ピュシス)性が驚きを伴って、日常とは異なった「現実」として自覚される。

すなわち、この場合、「経験」は「二次的構築物としてのフィクションとしての制度」によって「覆われ」ており、この「あるべきはずの制度として派生的に構築された現実=ある種のフィクション」に対しては、そのような制度の外部にその基底としてあるものが「二次的構築物としての経験に対比された意味での基底的な現実」としてたち現れるのである。このようなとき、「現実」とされていたものは実際には非現実の側に、「非現実」とされていたものは現実の側に属していたことになる。またこのような見方を取るとき、現実は、不条理なものとしての側面を露呈することになる。

両者の意味は実際の用法においては非常に対比的であり、現に経験されている物事の可能性の限界をどこに見積もるかということにかかわる。経験的に把握される起こりうる現象の限界、あるいは現実と非現実との境界を人為的で可変的、かつ二次的なものと見れば、その領域の外こそが「現実」であるが、自然的で絶対的、不変で一次的なものとみなせば、その領域の外は「非現実」そのものである。

- Wikipedia より
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%8F%BE%E5%AE%9F&oldid=39120762

nogaさん、コメントありがとうございました。あまりに深遠(profound)な内容のため、今いろいろと考えさせられています。
by Ray (2011-09-23 12:27) 

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